マライア・キャリー(英: Mariah Carey, 1970年3月27日 - )は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、音楽プロデューサー、女優としても活躍している。
彼女の持つ18曲の全米No.1シングル(Billboard Hot 100)はビートルズに次いで歴代2位で、女性アーティストとしては1位であり、ソロ歌手としても歴代1位である。全米TOP10シングル獲得数は27曲でアーティストして歴代5位。
2000年にはWorld Music Awardsにてこれまでに最も多くのレコードを売った女性として表彰された。(男性アーティストはマイケル・ジャクソン)。 これまでWorld Music Awardsにて17回受賞(アーティストとして最多)。
その他にも俳優(女優)としての受賞を含め、グラミー賞、American Music Awards、Billboard Music Awards、などの音楽4大音楽賞を含め数々の受賞歴がある。
全世界でシングルセールス6500万枚以上。アルバムセールス1億7500万枚以上。トータルセールス2億4000万枚以上のセールスを記録している。一方でデジタルセールスでは1380万ダウンロードを超えるセールス(アメリカ国内のみ)を記録している。
2009年12月に米のビルボードが発表した2000年代(過去10年)アメリカでの最大ヒット曲と最もラジオで流れた曲に 「We Belong Together 」(2005年発売)が1位になる。
1995年からはキャンプ・マライアと題された恵まれない子供たちへの社会奉仕活動を自身で設立する等、今でもチャリティー活動には欠かさず参加している。
[編集] 幼少期・デビューまで
ベネズエラ系移民の父(アフリカ系ベネズエラ人とアフリカ系アメリカ人のハーフ)とアイルランド系アメリカ人の母(白人)の間に3人兄弟の末っ子として、ニューヨーク州ロングアイランドに生まれ醜い人種差別に耐えながら幼少期を過ごした。音楽はブラックミュージックを基盤としている。
ハイスクール卒業後、マンハッタンへ移り、ウェイトレスなどをしながらチャンスを待っていた。その後、ブレンダ・K・スターのバックコーラスとなり、ブレンダに連れられて訪れたパーティー会場でCBSレコード(コロンビアレーベル、現:ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国))のトミー・モトーラ社長へブレンダがデモテープを渡したことがきっかけとなり、1990年に"Vision Of Love"でデビュー。このシンデレラストーリーとデビュー直前にNBAファイナルで「America the Beautiful」を熱唱し話題になったことから大ブレイクした。
[編集] ブレーク期(1990-1996)
デビュー当時のキャッチコピーは「7オクターブの音域を持つ歌姫」(ただし、これには誇張があって、実際のマライアの音域はG♯2~G♯7(lowG♯~hihihiG♯)の5オクターブである。5オクターブと言っても、数多く存在する歌手の中でもかなり広く、女性では不可能に近い男性並の低音域から、ハープやフルートの最高音に匹敵する超高音域のホイッスルボイスまでを自在に操っている)。音域をいっぱいにまで使った曲はデビューから今もなおよく見られる。最も高い声を出す人としてギネス・ブックに認定されていた。
1991年には女性アーティストとして3人目となる『ビルボード』誌のアーティスト・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。
アルバムMusic Box (1993年)、Daydream (1995年)は全世界で各2500万枚を超える大ヒットとなった。Boyz II Menとのデュエット曲「ワン・スウィート・デイ」は1995年から1996年にかけてビルボードのHOT 100で16週連続No.1を獲得。この最長記録は2010年現在も破られておらず、ギネス記録に認定されている。また、2005年のMIMIからのセカンド・シングル「ウィ・ビロング・トゥゲザー」はOne Sweet Dayに次いで歴代2位の14週間1位である。
1995年、キャンプ・マライアを設立して、低所得者層の恵まれない子ども向けに芸術や就業機会を学ぶ場を提供している。同時にFresh Air Fundの設立もしていて、1700万人以上のNYの治安が悪い地域の子どもたちに無料の夏休みを提供している。
1996年にはPeace Officer's Memorial Serviceに参加し、ビル・クリントン(第42代大統領)の前で「HERO」を披露した。
[編集] 転換期(1997-2000)
1997年、アルバム『Butterfly』からのファースト・シングルの『Honey』を発表。この曲は当時の音楽界に衝撃を走らせた作品となった。マライアによるこの曲の発表によってポップスなどからR&BやHip-Hopなどがアメリカでは全盛期を迎えることになった。(現在の米でのメインストリームがR&Bになったのはこの曲がきっかけとも言われている。)
アルバム『Butterfly』では、張りのあるヴォーカルよりもささやくようなコーラスやフェイクが目立つようになる。音楽的にはそれまでのアダルト・コンテンポラリーから、多くのラッパーを起用したR&B、ヒップホップ系に大きくシフトした。後に彼女がバタフライをトレードマークとしているように、一時の商業的ポップ志向から離れ、マライア独自の芸術性・音楽性を開放していくきっかけとなった。ヒップホップビートのサンプリングや、ラップとヴォーカルの融合によるクロスオーバーは、マライアが1993年頃から試みている事でもあった。またミュージック・ビデオやステージ・パフォーマンスで、胸を強調したセクシーな衣装・表現が増え、この傾向は後の作品でますます強くなっていく。
1998年にはホイットニー・ヒューストンとのデュエット曲「When You Believe」(映画『プリンス・オブ・エジプト』主題歌)を発表。同年発売された初のベストアルバム『#1's』に収録された。
この時点で、彼女が会社(ソニー・ミュージック)に生み出した利益は1000億円を超えたと言われている。
[編集] 低迷期(2001-2004)
1999年のアルバム『Rainbow』を最後にソニー・ミュージックを離れEMI傘下のヴァージン・レコードに移籍。史上最高クラスの8000万ドル(当時約128億円)もの契約金が話題となった。しかし精神的・肉体的にトラブルを抱え、2001年にはテレビの生放送番組でストリップまがいのパフォーマンスをして顰蹙を買う。
同年、半自伝的な初主演映画『グリッター きらめきの向こうに』が公開されるが、興業的には失敗に終わる。そのサウンドトラックアルバムは映画の失敗、多すぎるゴシップや発売日(9月11日)がアメリカ同時多発テロ事件と重なったなどの不運もあり、低調なセールスに終わった。結局EMIからはこの1作だけで契約を打ち切られ、「リストラの一環」という不名誉な話題となった。しかし、契約打ち切り金として2800万ドル(当時約30億円)が支払われ、一瞬で得られた最多報酬としてギネスブックに掲載されている(日本では契約の関係上『Glitter』もソニーから発売され、東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)からは1枚もリリースされていない)。同曲のサウンドトラックからシングルカットされた「Loverboy」はビルボードのシングルセールスチャートで年間No.1を獲得している。
ほどなくしてアイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループ(Island/Def Jam Music Group、ユニバーサルミュージック傘下)とレコード契約を結び、2002年にアルバム『Charmbracelet』をリリースした。同年12月にプロモーション来日している。
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