交響曲第2番ハ短調(こうきょうきょくだい2ばんハたんちょう)は、グスタフ・マーラーが作曲した交響曲。「復活」(Auferstehung)という標題が付されるのが一般的である。これは、第5楽章で歌われるフリードリヒ・クロプシュトックの歌詞による賛歌「復活」(マーラー加筆)からとられたものだが、マーラーがこの標題を正式に用いたことはない。
1888年から1894年にかけて作曲された。オルガンやバンダ(舞台外の楽隊)を含む大編成の管弦楽に加え、第4楽章と第5楽章に声楽を導入しており、立体的かつスペクタクル的な効果を発揮する。このため、純粋に演奏上の指示とは別に、別働隊の配置場所や独唱者をいつの時点でステージに招き入れるか、合唱隊をいつ起立させるかなどの演出的な要素についても指揮者の考え方が問われる。
第4楽章では、マーラーが1892年に完成した歌曲集『子供の不思議な角笛』の歌詞を採用している。つづく交響曲第3番、交響曲第4番も『子供の不思議な角笛』の歌詞を使っていることから、これらを「角笛」3部作として括ることがある。演奏時間約80分。
[編集] 作曲の経緯
[編集] ブダペスト時代
1888年3月、マーラーはのちの交響曲第1番となる「交響詩」を完成させると、5月にはライプツィヒ市立歌劇場の職を辞して故郷のイグラウに戻った。10月1日にはブダペストのハンガリー王立歌劇場の音楽監督に就任した。
マーラーが新たな楽章の作曲に取りかかったのはイグラウにいた6月のことである。曲は8月にほぼ完成、9月にプラハで浄書された。この楽章の自筆総譜の表紙には、「葬礼」と書かれているが、その下には削除された「交響曲ハ短調」の表示が残されており、さらに1.Satz(第1楽章)とされている。これは、この曲がはじめ交響曲の第1楽章として構想され、のちに標題が書き換えられたことを示すものである。マーラーは同じ年に『子供の不思議な角笛』に出会い、これにも作曲を開始している。
この年マーラーは、11月に「交響詩」を初演するが、失敗。マーラーは曲を改訂する必要を感じたと見られる。この間、新たな楽章はマーラーの手元に置かれたままだった。
一方、指揮においては、ワーグナー作品のハンガリー初演やモーツァルトの歌劇の上演で評価を高めたが、歌劇場新監督のツィヒ伯と対立したマーラーは、1891年3月14日、ブダペストを去ることになった。10年契約のところを2年余りで途中辞職させられたことで、マーラーは多額の補償金を得たという。
[編集] 「葬礼」の試演
1891年3月26日、マーラーはハンブルク市立劇場の指揮者に就任した。これはブダペスト歌劇場の辞任前に打診していたものであった。マーラーは就任直後の3月29日から5月31日まで、ワーグナー作品を中心に取り上げ、3月31日の『ジークフリート』公演を聴いたハンス・フォン・ビューローは、マーラーの指揮を絶賛した。
10月、マーラーは作曲済みの第1楽章をショット社に送付し、単一楽章の交響詩として出版することを打診した。「葬礼」の標題は、このときに付けられたのではないかと考えられている。11月には、「葬礼」をピアノ演奏してビューローに聴かせる。マーラーの指揮を評価したビューローだったが、「葬礼」については、「これに比べれば、『トリスタンとイゾルデ』もハイドンの交響曲みたいなものだ」、「これが音楽だとしたら、私は音楽が全くわからないことになる」などとして、耳をふさいで露骨に拒絶を示した。ショット社からも出版を拒否され、マーラーは単一楽章としての発表を断念せざるを得なくなった。
この間、マーラーは『子供の不思議な角笛』の作曲をすすめており、1892年4月に完成、翌1893年にはオーケストラ版の総譜が完成する。このうち第7曲「原光」が、のちに交響曲の第4楽章に充当されることになる。
[編集] 交響曲の完成
1893年1月にマーラーは「交響詩」を改訂(=第1交響曲第2稿)。7月にザルツブルクの近郊、アッター湖畔にあるシュタインバッハにおいて、「第2番」の第2楽章から第4楽章までを完成させた。このとき、『子供の不思議な角笛』の新たな1曲「魚に説教する聖アントニウス」も第3楽章と同じ材料に基づいて作曲されている。マーラーはこの年から夏休みをシュタインバッハで作曲に専念して過ごすようになり、また、バート・イシュルに滞在していたブラームスを訪問して知己を求めている。
同年10月、マーラーは改訂した「交響詩」に『巨人』の標題を付してハンブルクで演奏、翌1894年7月ヴァイマルで再演するが、いずれも成功しなかった。
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